ゆでる心、焼く気持ち。

雑記ブログです、日々思った事や感じたことをありのままに書きます

ブログお引越しします。

お引越しでございやす。

 

これまでのブログ歴

 

mixi(懐かしい)→FC2ブログ→アメブロ→はてなブログと来ましたが、

新たな場所に移動します。

 

どこかで話題になった時に、

その場所でお会いしましょう。

しばらくしたらこのURLにはアクセスできなくなります。

 

へけっ!!

 

 

100歳まで楽しく生きたい。

あぁ、忘れていたな。と思った。
いつからでもいいんだなと思った。

そんな気持ちにさせてくれた
富士フィルムには感謝を述べたい。

部屋で筋トレをしていた。いつも、
youtubeを適当に流しながら
筋トレをするスタイルだ。
突然youtube広告が流れ、
画面には白髪の老婆が
軽快な音楽と共に勢いよく
三味線を弾いている姿が映っていた。

104歳だそうだ。104歳と言えば、
1日1日が命がけの世界だ。
やりたい事を明日に伸ばそうとすれば、
その時にはもう息絶えているかもしれない。
若い世代と違って転びやすかったり、
いつ怪我をしてもおかしくない。
その瞬間、瞬間を生きている。それも、
舞台の上で魂を輝かせるがごとく、美しく。
我々が普段想像している老後の不安、
なんてものはそこには無かった。

今の現代にとって重要な台詞

映像の冒頭部分で
「自分が100歳になった時の姿が想像できなくて...」
話す若い女性の声が入っている。

これは、今の現代にとってとても重要な台詞だ。

我々は、普段の生活の中で、
1杯のコップにバケツ容量いっぱい分の
水をバシャッと叩きつけるように
頭の上からたくさんの情報が注ぎ込まれ、
身動きの取れない状態になっている。
それも、目に留まるほとんどが
不幸なニュースだ。

老後の保障は一切ない。やれ不倫だ。
やれ通り魔だ。やれ殺人だ。不祥事だ、
詐欺だ、横領だ。

うんざりしている人はきっと多いと思う。

手塚治虫が日本に高層ビルなんて
無かった戦後の時代から、
高層ビルの描写を描き続けた事で、
人々の頭に
「ビルが建ち並ぶ未来の日本都市」
というイメージが形成され、
そのイメージに向かってがむしゃらに
頑張ってきた人達がいるから、
今の日本がある。

という話を聞いた事がある。
本当かどうか分からない。けど、
少しは影響しているんじゃないか?
と思っている。というか、かなり。

不幸な情報が渦巻いている中では、
悪いイメージしかできないと思う。
若い女性の声で「自分が100歳になった時の姿が想像できなくて...」という
台詞が出てきたのは、実は日本にとって大変大きな問題なのだ。

我々は、普段旅行をする時にイメージを思い浮かべる人が多いと思う。
"どこへ行こうかな"
"沖縄の海はキレイだろうな"
そのイメージに沿って計画を立て、
ワクワクしながらその未来を
現実のものにする。

今後の未来を背負い立つ我々が、
将来に対して全く楽しいイメージを持てない。
というのは、思っている以上に大変な危機だ。

そのマイナスなイメージを持ち続け、
50年後に「ほら、やっぱり日本は最悪な結末を迎えたね」
なんて会話を、私はしたくない。

そんなの我々の誰一人、
本来望んでないはずだ。

この映像は、それらの危機を乗り越える大きな手がかりを持っている。
普段、こんな風にシェアするなんて事もあまり無いのだけれど、単純に、
あぁ、忘れていたな。こんな気持ち。
と思って嬉しくなって、
泣きそうになって書いてみた。

今日本に必要なのは、
もっとポジティブな情報だ。

危機に対する事前の対策は、
必要な場合もある。けれど、必要最低限でいい。
「今日はパーティだ」という日に
ハッピーな気分で外出しようとすると、テレビの狭い画面の中から、
不幸で、いじわるで、陰湿な人々が、
ゾロゾロと這い出てきて、
床にゴロンと体を投げ打ったかと思えば、ムクッと起き上がり、
血だらけで睨みつけ、しゃがれた声で話しかけてくる。

「私達はこんなに不幸なのに、あなたは幸せな場所へ出掛けるんですか?」
「殺人鬼が沢山いる。あなたも狙われているよ。」
「人って信用できないよね。ひひひ」

そんな情報の群れを必死でかき分けて、
パーティー会場へ向かう。
情報というものは、
無意識下で頭に残るものだ。
しゃがれ声がコロコロと頭に響く。

そういうバッドな情報が少ない世界なら、
100%楽しいコンディションで会場へ向かえるだろう。

テレビやネットを見て、
まだ見ぬ危機に対する対策を必死に行う。
疑心暗鬼で誰も信用できなくなる。
手を差し伸べてくれた人の笑顔が気持ち悪く感じるようになり、
勇気を出した「思いやり」という一歩がバラバラに砕け散って、塵となり、
街や路地裏、道のあらゆるところに捨てられている。
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「100歳まで生きたくない人74.2%」

冷静に考えてもおかしい。
今の日本だとそうなるよね。
って同意する人多いと思う。
けど、それがおかしいと思う。
どうしてこうなったのだろう。

もっと未来に希望を持てる情報や、
気持ちや、人で溢れていたら
自殺志願者の「どうせあと何年生きても変わらない」という気持ちは
少しは変わったかもしれない。

もっと未来に希望を持てる情報や、
気持ちや、人で溢れていたら
「100歳って、思っていた以上に
素敵なんだな」
という人が少しは増えたのかもしれない。

いや、きっと未来に希望を持てる
情報や、気持ちや、人なんて、
今の時点で私達が知らないだけで、
沢山あるのだろう。

VRが持ち運びできるようになってきた。
3D映像に触れられる技術が開発されてきた。
コンタクトレンズに映像を映す事もできるようになった。
VRの中でリアルと同じように会議だってできるようになってきた。
ロボットやAIが進化して、苦しい仕事を肩代わりしてくれるかもしれない。

きっともっと沢山の、
楽しくって、嬉しくって、
未来がワクワクするような。
そんな情報は今も沢山溢れていて。

我々の気持ちがマイナスに
傾いているから、
満開の花が咲いている中、
下を向いて歩いているから、
雑草ばかり見つけるし、
壁にもぶち当たるのかもしれない。

「老後の保障なんてどこにもない」

分かった。うん。それなら

「老後、不幸になる保障なんてのも、
どこにもないよね」

今日不幸だからと言って、
明日も不幸とは限らない。

いつだって、未来は未だ見ぬ世界。
なんにも、分かりゃしないじゃないか。

それなら、今の自分自身のこと、
目の前の人のこと、
今の気持ちを大切に、
少しでもいい未来を
築いていきたいなと思う。
少しでもいい未来を
願って行動したいなと思う。

楽しい100歳。自分もこの動画の人みたいに、
自分の好きな事をやって、それで、
今日気持ちを抑えきれなくなって
ブログを書いちゃったみたいに。

いくつになっても、色んな人に素敵な影響を与えられる人で在りたいな。

そう強く思いました。

【羽生】何がいいのか分からなかったオリンピックで不覚にも涙した話【宇野】

 

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カキンッ!!という音と共にボールが空高く飛んだ。
店員のおばちゃんも作業の手を止めて、どれどれとホールにやって来る。

店員「おぉおおーやった!!」
サラリーマン「あぁーー走れ走れ」

背広姿の男たちや店員もみんな一様にポツンと置かれた
少し古めの薄型ディスプレイを眺めている。

会社帰りの飯屋で何度もこの様な光景をみてきた。

時にはサッカー、時にはスキー。
そのたびに頬に手を当て、ため息をつきながら、

何が面白いんだろう〜〜
あんなに騒いでどうしたんだろう〜〜〜

そうつぶやいていた時期が僕にもあった。
変な話、オリンピックとか、サッカーとか野球とか
何が面白いのか全然分からなかった。

自分がやる時は、どのスポーツもおもしろい。
他人のスポーツを観て騒ぐ。というのは、
まるっきり感覚が分からなかった。

「自分がプレイしてもないのに何が楽しいんだろう」
知らない人のカラオケソングを聴かされている様な、
そんな感覚になっていた。

歌はうまい。だがしかし、
その歌を延々と聴いていても特に面白くはない。

みたいな。そんな気持ちだった。
ついこの間までは。

そんな僕が今回のオリンピックを
食い入る様に見つめてしまった。

魔王の様な気迫と、きらびやかでいて、
陰陽師を感じさせる様な独特な衣装。

 

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ドォンッ!という低音のBGMと響き渡る手拍子。

羽生結弦くんから、凛々しさと繊細さ、
あらゆることばでは表現できない美しさが現れていた。

宇野昌磨に至っても、ドキドキが止まらなかった。
4年も練習に練習を重ねて、最初に大きく失敗した。
その後、彼はどのような気持ちで滑っているのか。

 

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滑っている間、微塵も曇りの無い、
「がんばれ」「どうかうまくいきますように」
そんな事をずっとずっと心の中で何度も何度もつぶやいていた。

あぁ、そうか、

これか、

この、「相手を心の底から応援する」という気持ち。
それも、日本全国のみんなの心が一つになって応援する。
気持ちがひとつに集まる。どうか、願いよ届け。
成功してくれ。がんばれ。
こんなに日本中の人が心を動かされ、応援する。
そんな感動的なこと、1年に何度もある訳ではない。

 

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そして、相手の一生を全てかけたその瞬間を見届ける事ができる。
歴史を刻むその瞬間が見られる。
身近にいる大事な人がメダルを取った様な、そんな気持ちになった。

スポーツを応援している人やオリンピックを楽しんでいる人。
もちろん、中にはただミーハー的な感じで騒ぎたい。
便乗したい。学生時代に自分が叶えられなかった夢を叶えて欲しい。
あの頃を思い出したい。

とか色んな理由で観客として楽しむ人もいるのだろうけど、
純粋に人を応援する気持ちを送ることができる。

それこそが、オリンピックの魅力だと感じた。

受け取るよりも、与えた人生の方がずっと豊かだと思う。
その"与える"をみんなで団結してできる貴重な4年に1度のタイミング。
そうだと考えたら、全てが尊く思えた。

羽生結弦選手、
宇野昌磨選手、

金メダル、銀メダル、本当に本当におめでとう。

素晴らしいものが観られて、
オリンピック嫌いだった僕は、
不覚にも涙した。

誰かの答えばかりを鵜呑みにする人を見て改めて思ったこと(6年前の記事)

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世の中には沢山の答えが
ありふれている。
インターネットを開けば
情報の網に数百年前の哲学者が
一生を考えてたどり着いた答えや
はたまた、どこかの評論家や
カリスマ有名人の答え。

そんな答えの網に
まんまと引っかかり、
誰かの答えをコピペして
意気揚々とオモチャのロボットの
ような声をだし、ピピピ
ガーガーガーと喋る会話の中に
一体どれだけ血の通った人の声を
聞く事ができるだろう。

自分の頭で考えず、
どこかで得た答えを丸呑みして
息を詰まらせ、情報の網に
体を絡ませながらやっとで
息をしている。

息苦しいと感じる。

この時代に大切なことは、
どれだけ情報を絞るか。
どれだけ空白と向き合うか
だと思う。

情報はきょくりょく遮断して、
削っていく。削りに削る。
その後で、それでもなお
白く輝く何か。

それこそが、
“私”というものじゃないか。

誰かが金儲けのために
作り上げた幸せのテンプレが
固定観念となって、
その誰かが作った幸せに
沿っていない自分を責め、
自分の頭で何も考えず、
誰かの答えをコピペして
生きている。

そんな瞬間に息苦しさを感じる。
誰かの考えで頭を満たして、
生きるのであれば、
あなたは一体だれなのだろうか。

答えよりも、
問いかけの方が
私は好きだな。

正解なんて
無いのだけれど。

 

コツコツと目の前の小さな階段を上っていこうじゃないか。 っと心に決めました。とかなんとか今も言ってる

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最近、映像に触れていない。
と思ったら途端に寂しくなった。


良い音楽に出逢った時、瞼をつむると
何かPVの様な多用な色の粒やフラクタルな模様が
想起できて音が鳴る度に様々な「色」が出て来るし、
心踊るし、カラダ心地良く揺れるし。


何かの衝撃には映像が伴っている。


字面にしても、言葉にしても、
映像を伴ったその刺激が今の僕には足りなくて。


一時期クラブでVJをやらせて頂いた時があって、
色んな映像をずっとずっと目に入れてる時期があったんだけど。


その時は、必死になって素材集めしてる時に、
VJってなんて地味な作業なんだ。
とか思いながらも週末やって来る馬鹿でかいスピーカー音に
自分自身のすべてが解け込む感覚に、映像に、
興味心身になって目を輝かせる来場者の瞳に、
なんだかワクワクしていた。思えば、
その時に自分の中に取り込んだ何百もの映像集は、
僕のどこかで生きている。けど、何らかを想起させる
刺激が無い限りその多くの映像はまだまだ眠ったままなんだよね。


引き出しには鍵が掛かっている状態だ。
何か素敵な映像のトリガーが無いと、
眠った素材達はずっと眠ったまま。


と言う事で、いつも使用しているノートパソコンの他に
プロジェクターで映像を流す用のパソコンもう1台が欲しくて
せっかく映像を流すんならスペースシャワーなんてものに入ってみて、
偶発する映像への出逢いに心躍らせようじゃないか!!


とか第三の目を開いた修行僧のようなテンションで
モヤモヤ考えていたのだけれど。


自分の部屋の壁、木の壁だし。どうせなら部屋を真っ白にしたいし。
真っ白にしたんなら、もう好きな家具とか買っちゃって色々したいし。


って全体像を視野に入れてたらやっぱ
やりたい事や夢ってものは叶わなくて。


コツコツと目の前の小さな階段を上っていこうじゃないか。
っと心に決めました。


っと言う事で、もう1台のモニターなり、なんなり、
映像を映せるモニタが欲しいのです。流しっぱにしたいのです。


誰かMac Book Proちょーだい!笑


やりたい事が多過ぎて
何がなんだか分かりません。


今日も見に来てくれてありがとうございます。
自分が20人ぐらい居たら良いのに。


とか思うけど、そしたらここに日常を書き続けるだけで、
きっと、「後20人ぐらい自分が居たら良いのに」とか
もう20人が一斉に考え出して終わりでしょうねぇ。


難しいもんです。(もやもや)

 

ルーティン上にあるサービスに思いやりなんて求めていない件

 

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私達はとても忙しい。
社会という見えざる大きな黒い手によって
引っくり返された人生の砂時計は、
水を飲もうと蛇口をひねった瞬間に
水の代わりに大量の砂を放出し、
その砂を片付ける後処理をしている間に、
あっという間に「私」の残り時間は減っていく。

そう、私達には余裕というお金よりも大事な、
「心の余裕」というものが無いのだ。

その状況で、「おもてなし」という、一見、
善意に見えるそれらのサービスを
受けるにあたって、サラリーマンというものは、
心が少しでも満たされるか?と言われれば、
その逆で、その「おもてなし」によって、
MP(心の余裕)はガンガンに減っていくのだ。

私が言いたいのが、我々は毎日、日常のルーティン上に
あるサービスに「おもてなし」を求めているのか?という事。


NOの人が圧倒的に多いのでは無いか?


例えば、あなたが駅のトイレに入る際に、
そこのトイレにスーツをビシッと決め、
白い手袋を付けたサービスマンが立っていて、
トイレのドアを開けようとすると、
手慣れた手つきでドアを開け、

「さぁ、どうぞ」と促してくる。

もし、そんなサービスをする
駅のトイレがあったのなら、
きっと多くの人はこの「おもてなし」、

クシャクシャに丸めた紙くずみたいな顔して
「「うわぁーめんどくせぇートイレにサービスマン要らないからw」」
とかしゃがれ声で言ってやりたい気持ちにならないだろうか。


これ、何が言いたいかと言うと、
仕事帰りにフラッと立ち寄れる
近所の飯屋に求めているものは、
接客では無く、すぐに飯が出てくる事。

利用する理由は、美味しいからとか、
もうどうでもよくて、

ササッと飯を食べられれば良い。

それ以上でも、それ以下でも無いわけである。

近くてすぐにお腹が満たされるから、行く。
以上。

家までの道のりである程度、飯屋の選択肢がある場合は、
美味しさも選ぶ理由になるのかもしれない。

けど、けどね。

・この時間でもやっている。
・すばやく飯が出て来る
・安い

それ以上でも、それ以下でも無いんだよなぁ。
せいぜい日常のルーティンにあるものに求めているものは、
このぐらいかと思う。

きっと他に選択肢があれば、すぐにそこに行く。

だから、常連だと思って、好かれているのだと思って
なんか知らないけど、めっちゃ話しかけてくる店は、
すぐに行きたくなくなる。

まぁ、あくまでも一個人としての
主観なのには変わりないけどさ笑

ただ、この視点、今の現代社会では多くの人に当てはまる。
と勝手に思っている。

以前、近所の飯屋で勘違いした店員が

「休日何してたんですか?」
「今日もありがとうございます!今日は休みですか?」

みたいな事話しかけてきやがる。
やめてくれ、私はゆっくりとMPを回復するために
すばやくご飯を食べて、ササッと家に帰って作業をするために
今ここに来ている。

君と会話しに来た訳でも、友達になりたい訳でもない。

っと思ってしまう笑

もちろん、私もね、
日常のルーティン上では無く、普通に余裕のあるときに
サービスを利用する分には、「わざわざありがとう、いい店員さんだなぁ」
と思ったりする普通の感覚はあるし、
思いやりやおもてなしが不要だとは思わない。

ただ、飲食店員よ!!!!
常連客で目を合わせようとしない人がいたら、
しゃべらないでくれって事なんや!!!

ソッとしておいてくれwwww
ってだけが言いたかったのでした。

それじゃ、また!

 

キリン、スマッシュ。

今日は久々に卓球をした。全力で。

一畳程度のスペースで、ピンポン球の銃撃戦ですよ。
反復横跳びで、これでもかってぐらい右から左に高速移動。
本物の銃を体1つで避けるぐらい死ぬ気の覚悟で、
もう、体から湯気が出るんじゃないかっ?ってぐらい、
なんなら、真夏のアスファルトぐらい熱気ムンムンで、
アスファルトに咲く花のように見るもの(ピンポン球)
全てに怯えないで、次から次へと来ますよスマッシュの連打が。

自分から磯野ー野球やろうぜぇ~!
みたいなテンションで卓球誘ったくせに。

30分後には、床に向かって拳を叩き付けながら
ラマーズ呼吸してました。

いつも最初に全力を出すからこうなるんですよね。
歌を歌う時だって、始めっからマキシマムザホルモンで、
デスボイスかましてたらさすがにバラードでオエッってなりますよね。

対戦相手である友人Mの声がデスボイスに聞こえましたよ。
「ヒーヒヒヒッ!」とか言いながら「ねるねるねるね」の魔女ババ
みたいなテンションで挑発して来たので、ちょっと冷静になってみた訳です。

ほら鉄拳チンミとかドラゴンボールやら、
ハンターハンターやら、バガボンドとかでも良く言うじゃないですか。

動を極めるには、静を極めよ。
水になれ。静かな水面に魚が跳ねるように、
静かに、的確に、素早く、雷の如く動け。

みたいな。

まぁ、魚なのか雷なのか、
どっちなのかって疑問は残るし、
詳細は知りませんけど。

とにかく水になってみました。
まず体から無駄な力を取り除きます。
腰を低くした卓球の愛ちゃんポーズから
徐々に頭を起こし、猿人から人間への進化図、
大体2番目ぐらいの奴であるアウストロラロピテクス状態になります。
ちょっと手をダランとした感じです。

だいぶ猿に退化しちゃいますが、しょうがないです。

そして、重要なのがここからです。

ピンポン球を見ないんです。

(  Д ) ⊙ ⊙ !!!?

えっ見るでしょ?

(^ω^≡^ω^)

ピンポン球を見ないんです。

(  Д ) ⊙ ⊙ !!!?

と言う感じで、(すいません顔文字使いたかっただけです)
ピンポン球を見ないんです。

そうさ100%勇気!もうやりきるしか無いさァッ!!
とか言う歌は子供の頃に聞いて「ふんっそうだその通りなのだ!」
と今のいままで思ってましたが完全なる嘘です。100%も出さなくていいし。
むしろ球さえも見ないで良かったんですよそもそも。

ピンポン球を見ないで、感覚で打つ方が、
全然良いです卓球の場合。

球が来るなぁ~と思う所にあらかじめ
手をセットしておきます。それか、なんとなく
ゆら~っと、つい~っと、深夜に寝巻き姿でコンビニ行くような、
だる~いテンションでラケットをやや下めにして、
球がやって来たらゆら~んと手を動かします。

だら~んとします。ゆら~んとします。

そしたら、カキーーーンッ!ってシュバッ!
ってバシュッ!!って鳴ってドッカーーンして
ちゅどーーーーんでゲハハですわ。

必ず相手が打ちづらい良い所に入ります。そして、
手元を見ずに打つ事で、次の対応が速くなり、
相手の目線を見ながら次の弾道を予想できちゃったりします。

このゆら~んだら~んポンッ!シュッ!シュッ!
な感じで猿人になりつつ、水になりつつ、
チョンチョンしてたらですね。

無駄な動きが亡くなりまして(永眠)
新しい新人類が復活したのですよ(どや顔)ババン!

この戦法に変えてから、動きまわる事も無くなり、
相手の球も9割方打てる様になりました。
次の動きに対応できるので、スマッシュも良い感じです。

他のスポーツでもそうですが、
なんとなく脱力し、力を張らずに感覚でやった方が
シュート入る!!って時とか皆さん経験あると思いますが。

思い切って手元&足元見ないでシュートするのも
良いのかもしれません。

自分はスポーツする時に、気合いはある方だと思うのですが。
無駄な動きが多いんですよね。最初から全速力で対応して、
ひーひー言いながら戦うみたいな、もうハチャメチャなんですが。
そういえば、仕事や恋愛、スポーツ、色んな場面で力を抜いて
気楽に行く事で、よりパフォーマンスが優れる事ってあったなぁ~と。

改めてそんな当たり前を思い出させてくれる1日でした。

今日も見に来てくれてありがとうございます。
ゆら~んだら~んポンッ!シュッ!シュッ!な感じです。